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活動レポート

復興meetup! 「SKY BATON」×きっかけバス47

2月18日(火) 3日目

2014年2月18日@宮城県気仙沼市・南三陸町・閖上(名取市)
3日目。気仙沼で朝を迎え、その後南三陸と閖上(名取市)で、地元の「語り部」の方々から、震災当時の話を聞きました。

東北の朝、気仙沼の漁港を見渡すホテルで朝を迎える。眼下に広がるこの地も、津波が押し寄せた。

陸前高田の被災地の語り部、釘子明さんの講演。地震直後に逃げ込んだ陸前高田市立第一中学校に避難所を立ち上げ、組織をまとめ、施設運用を管理するなど陣頭指揮に立った。
「東北から一番離れた沖縄から来てくれて本当に嬉しいです。Facebookでの活動報告も見ていたんですよ。彼女たちが「東北のことを忘れないで下さい」って、募金活動していた姿が目に焼き付いてます。あれから3年が経とうとしている今、忘れ去られそうになった被災地のことを、この『スカイバトン』と"きっかけバス47"によってもう一度みんなが全国に広めてくるのはありがたいです。これからも大災害が起こる可能性はある。今回知ってもらったことを、自分の街づくりの未来に活かしてほしい。」

津波で奪われた命、避難所での先行きの見えない人々の生活。当時の生々しい映像と釘子さんの体験談に、胸を痛める。

ホテルを出た一行は、南三陸の語り部・高橋さんと共に戸倉中学校跡へ。標高15メートルの丘の上に建つこの場所へも津波は到達していた。

震災当時、2歳と生後間もない子どもを車に載せ、背後から迫る津波から必死に逃げたという高橋志保さん。今は語り部として、防災の呼びかけをしている。

骨組みだけが残る南三陸町防災対策庁舎。大地震の直後、「津波が来ます。高台へ逃げて下さい」と津波にのまれる最後まで警鐘を鳴らし続けた。

右)坂元 玖朱さん(さかもと くみ)
「あんなに高いところに津波が来たということに衝撃を受けています。改めて沖縄に住む自分たちの避難所に対してどれだけ安全かを、考え直さなきゃいけないとも感じました。今日見た戸倉中学校の方が全然標高は高いです。同じ高さの波が来たと考えたら……。」
中)宮里 恵利香さん(みやさと えりか)
「自分たちの意識の低さを思い知らされました。今、私の住んでる名護市は結構海が近いんですけど、台風が来た時でさえ避難警報が出されるところなのに、津波のことは何も考えていない、何も知らないんです。」
左)具志 樹里亜さん(ぐし じゅりあ)
「語り部さんたちの話の中で『瓦礫は自分たち被災者にとっては財産だ』という言葉が印象に残っています。私たちから見たら瓦礫なのかもしれないけど、被災した人にしてみたら自分の家の一部、自分の財産が流されてしまったわけで、ハッと気づかされました。」

閖上地区で語り部として活動する、菊池さん。甚大な被害の出た閖上地区を回りながら、被害の様子や、復興に向けて様々な問題を抱える現状を、学生たちに語った。
「閖上地区は、大地震が発生してから1時間6分も経ってから津波がやってきました。また、地域での危機意識の薄さもあって、多くの人が命を落とすことになりました。」

閖上地区を一望できる日和山。8メートルほどの高さしかないこの山にも、多くの人々が津波から逃れようと集まり、流されてしまった。

閖上中学校では14人の生徒が犠牲となった。校舎正面に建てられた慰霊碑に刻まれた名前に、そっと手を添える。

カナダからの支援によって建設された、この地区で唯一仮設ではない施設「メイプル館」。津波に遭うことの恐ろしさ、復興の困難さを説く、桜井広行さん。

夜、旅館に2回目のダイアログ。昨日にも増して熱のこもった議論が行われる。「僕らが今回見て、聞いたことを、今後どう活かしていくべきか。」

「遠く沖縄から、こうやって"きっかけバス47"が東北に来ていることの意味を、もう一度考えてみよう」。リーダー・山本さんの問いかけに、一斉にグループディスカッションが始まった。
「東北までの道のりを支援してくれた人、そして東北で出会った人々、たくさんの人からの受け取る『バトン』の重さを改めて痛感しました。」
「ここで経験したことを、沖縄に戻ってから形にして、家族や友人、そして下の世代にも伝えていけるように活動を続けていきたい。」

2月19日(水) 4日目

2014年2月19日@福島県福島市
最終日、原発事故の被害からの復興を目指す福島へ。

沖縄チームに帯同した、『SKY BATON』担当・JAL 関口と集合写真。「見聞きしたいろいろな"東北の今"を、沖縄に戻ってからも伝えてください。」

JR福島駅の近くにある「除染情報プラザ」。ここには除染に関する基礎知識や放射線に関する専門的な情報が集まる。

除染情報プラザで、福島の放射能汚染状況を解説する復興サポーターの根本文彦さん。
「みなさん、いろいろな質問してくれました。地域性もあるんですかね、沖縄の学生さんはすぐに反応があったり、覚えていこうって気持ちがすごい伝わってきましたので、ついつい熱が入って説明をしてしまいました。将来県外の人と接した時の風評を心配して、福島の子供たちには勉強してみんなに話しなさい、と言っています。でもそれは福島だけの力ではできないんです。でもこうやって全国各地から若い人が勉強しに来てくれるのはとても心強いです。」

東北での行程を終え、バスに乗り込むメンバー。東京への帰り道、この4日間で感じたこと、考えたことを発表する「チェック・アウト」が最後のプログラム。

奥村 和さん(おくむら のどか)
この4日間、思ったことをノートに書いていたんですが、日を追うごとにページ数が増え、最後は1日に6ページも埋めていました。このノートを見ると、自分の中で意識がこんなにも高まったんだ、と今実感しています。この46人のメンバーと意見を交わしたこと、地元の人たちに話を聞いたことで、大きく変わりました。震災が起きて3年経ってからしか行動に移せなかった私ですが、今からできることをやっていきたい。まずは学生生活の締めくくりとして、卒業論文で沖縄と被災地と繋げるこをテーマにして、この1年間考え続けようと思います。
山内 沢真さん(やまうち たくま)
"きっかけバス47"に参加することでしか経験できないことがいっぱいありました。最後に訪れた除染情報プラザで聞いた言葉が、一番心に残っています。スタッフの人に「震災が起こる前と起こった後で何が変わりましたか?」と聞いたんですが、すると「正しく怖がることができるようになった」と仰っていたんです。被災する前は、放射能にしても津波にしてもタダ怖いと思っていたけど、被災したことで、自分で知識を身につけ対処法もわかったと言っていました。もちろん怖いのは変わらないんだけど、正しい理解ができるようになったから、今は正しく怖がれる、と。とても印象に残りました。知ること、学ぶことの大切さを改めて痛感しています。
堤 理恵さん(つつみ りえ)
東日本大震災での津波警報は沖縄にも出ていました。そのとき自分の家族とも話したんですが、沖縄に津波は来ないよ、って無関心のままだったんです。本当は他人事ではなくて自分事として考えなくてはならなかったんです。でも、そんな家族も、私が「"きっかけバス47"で東北に行く」って伝えたら、支援したいって言ってくれたんです。自分の飲み代も寄付に回すって。私が動くことで、家族の「きっかけ」にもなれたことは本当に大事だな、こうやっていろんな人に広がっていったらいいな、と思いました。ツアーはこれで終わりですけど、ここがスタートラインだと思っているので、またこの46人で、沖縄でいろんな活動をしていければいいなと思いました。

リーダーの山本さんを支えた、運営メンバー6人。ダイアログやチェック・イン、チェック・アウトでも積極的に発言し、沖縄チームを盛り上げた。

2泊4日の旅も終わりに近づく。"きっかけバス47"で得た経験が、沖縄の、そして日本の未来へと繋がる。

まとめ
「東北の今を感じてほしい。」そんな想いで渡した『BATON』を手に、"きっかけバス47"沖縄の学生のみなさんが巡った、東北の4日間。真剣に、時には明るく「東北の今」に向き合った彼女たちは、「沖縄に戻っても活動をつづけます」と、これからを見つめはじめていました。
"きっかけバス47"プロジェクトは、沖縄チームをはじめ、全国47都道府県から2,000人の学生のみなさんが、東北に集結して活動をしています。
学生のみなさんが、見て、感じて、考えたことが、これからの東北の未来、そして日本の未来へと繋がってほしい。『SKY BATON』はそんな想いで"きっかけバス47"を支援しています。

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